原の辻遺跡ってどんな遺跡

『魏志』倭人伝に記された「一支国〔壱岐島〕」

 3世紀の中国の正史『三国志』「魏書東夷伝倭人の条」〔いわゆる『魏志』倭人伝〕に、倭に関する情報が2008文字で記されています。この2008文字のうち壱岐〔一大(支)国〕に関する情報は57文字と、国に関する情報としては伊都国、対馬国に次いで3番目に多い文字数で記されています。
 一支国に関する情報は「又南渡一海千餘里名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地耕田猶不足食 亦南北市糴」の57文字で、「(対馬国を出発して)また南に一海を渡ること千余里で一大国〔一支国〕に到着する。この海は瀚海と名づけられている。この国の大官もまた卑狗、次官は卑奴母離という。広さ三百里平方ばかり、竹木・叢林が多く、三千ばかりの家がある。ここはやや田地があるが、水田を耕しても食料には足らず、やはり南や北と交易〔=交流〕して暮らしている。」という内容が記されています。『魏志』倭人伝に記された57文字は、弥生時代の壱岐島の様子や生活の実情を窺うことができる貴重な資料となっています。
 『魏志』倭人伝に記された「一支国」とは、島内の1つの遺跡〔=集落〕を示すのではなく、島全体に広がる遺跡〔=集落〕で「クニ」を構成していたものと思われます。このことを裏付けるかのように島内から約60箇所の弥生時代に関する遺跡が発見されています。この中で、現在、環濠を持つ集落跡が確認されているのは、原の辻遺跡、車出遺跡群(くるまでいせきぐん)、カラカミ遺跡の3遺跡です。この3遺跡からは当時の生活の痕跡を示す遺構や遺物をはじめ、大陸や韓半島との交流を示す遺物が出土していますが、原の辻遺跡は集落の広がる範囲や交易を物語る大陸系の遺物の出土量が他の2遺跡と比べて突出していることや日本最古の船着き場跡が発見されていることから、「一支国の拠点集落=海の王都」に特定されました。『魏志』倭人伝に記された国の中で、国の位置と王都の場所の両方が特定されているのは、国内では「一支国」だけであり、『魏志』倭人伝に記載された内容を物語る唯一の事例として“国の特別史跡〔平成12年11月24日〕”に指定されました。

魏志倭人伝原文の写真
原の辻遺跡遠景の写真

原の辻遺跡ってどんな遺跡?

 遺跡は、居住域のある丘陵部を中心に約100ヘクタールの規模に広がっています。原の辻遺跡はその立地的環境から海上の交易拠点に選ばれ、中国大陸や朝鮮半島の最先端の文物を求める倭人の集団が集まって形成された海上の国邑(こくゆう)の姿がみえてきます。そこに大陸や朝鮮半島から海を越えて渡ってきた渡来人が持つ技術や文化が加わり、より計画的に集落整備がなされ、その集落形成過程において大きな影響を与えていたものと思われます。
 交易の拠点という明確な目的を持った原の辻遺跡は、これまでの発掘調査成果からも計画的に整備された集落だったことがうかがえます。環濠は丘陵に沿う形で多重に巡らされ、一部は既存の河川につないでその機能を確保しています。環濠は深さ1.0メートルから1.5メートル程度と浅いことから防衛としての機能より、集落内に溜まる水を排出し、生活環境を良くするための排水溝的機能も兼ねていたものと思われます。
 この他にも、墓域は環濠内につくらず環濠外の別丘陵部に形成している点や集落丘陵上の凹んだ谷部に不要になった土器や食材〔遺物〕を廃棄している点など計画的に整備された集落の一端がみえてきます。特に不要になった土器や食材を廃棄した土器溜り遺構は、範囲が直径30メートル以上を測り、土器だけで構成される層が深いところで厚さ70センチメートルにもおよんでいます。出土した土器から弥生時代中期中頃から弥生時代後期終末頃までの約400年間継続して使用されていたことが判明し、長い間、同じ場所に土器や食材を廃棄していたことがわかりました。
 居住域は丘陵の尾根部およびなだらかに傾斜する東斜面に集中し、同じ場所に何度も繰り返し建て直されています。縄文時代より続く地面に穴を掘って屋根を被せる竪穴住居もありますが、地面に穴を掘らず平地に壁を立てて、その上に屋根を被せる壁立式住居(かべたてしきじゅうきょ)が数多く建てられているのも中国大陸や朝鮮半島の影響を受けた原の辻遺跡ならではの特徴といえます。

原の辻遺跡の写真
船着き場の写真
原の辻遺跡の地図
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文化財課
〒811-5322
壱岐市芦辺町深江鶴亀触515番地1 一支国博物館内
電話番号:0920-45-2728 ファックス:0920-45-2829
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更新日:2017年03月10日